「徒然草」わたし的ランキング
●1位[第十四段]
(現代語訳)
和歌は何といってもやはり趣の深いものだ。つまらない賤しいものや樵夫などのすることでも、歌に詠みこんだりすると趣の出ることがあるもので、あのおそろしい猪でも、歌に詠んで「臥猪の床」などいうと、優雅に感じられてくる。
このごろの歌は、いっぱしおもしろく詠みととのえたと思われるのもあるが、古い歌などのようにどうゆうものか、言外にしみじみと感じられ、また情緒あふれて感じられるものがない。(中略)
歌道だけは昔に比較しても変わらないなどということもあるが、いやいや、どんなものか、今の世でも詠み合っている言葉や歌に詠みこむ名所も、昔の人が詠んでいるのは、決して同じようではなく、昔のは、安らかで、また癖がなくて、歌の姿もすっきりとして美しく、しかも趣が深くしみじみとして感じられる(以下略)。
私が1位に挙げたのは、この段である。和歌は趣の深いものだ、ささいであったり、いやしい事柄、単語であったとしても、歌にしてしまえば趣が出てくる、と語られている。例に挙げられている「猪」は、万葉の時代、狩猟獣の総称とされていた。また、害獣の代名詞ともされていたようだ。しかし万葉集には、猪を詠みこんだ歌が十九首出てくる。人々が恐れる害獣も、歌に詠んでしまえば風流なのだ。
また、昔の歌は安らかで、癖がなくて、趣が深い、とも言っている。これは和歌に限らず、現代にあふれるヒット曲にも言えよう。”懐メロブーム”などが時たま起こり、テレビなどで70、80年代の歌謡曲が特集されているのも、同じような心境からなのではないだろうか。昔の歌の方がいいものが多い、と振り返ってしまうのは、今も昔もそう変わらないようだ。
●第2位[第七十八段]
当世風のことなどで珍しいことを話題にしていい広めたり、珍重がったりするのも、また納得がいかない。世間ではふるくさいことになってしまうまで、それを知らないでいる人は、おくゆかしい。新しく来た人のいるとき、自分らのほうでいいなれている事柄や物の名前などを、わかっているどうしで、一部ずついい合っては、目を見合わせ、笑ったりなどして、その意味を知らない新来の人に、合点のいかないように思わせることは、世間なれない、教養の足りない人の、よくしでかすことだ。
流行のニュースや噂話を、内々で愉しんで、新しく来たものに教えず、自分が知っているということにひたすら優越感を感じている人に苦言を呈している一段。知識とは人に教えて初めて身につくというか、学んだことは人に教えると自分にも身につく、とよく言う。また、インプットしただけでは何の役にも立たず、アウトプットして初めて教養となると思う。流行を知らない人がおくゆかしい、というのもなんとなくわかる気がする。流行をあまり気にせず、大切なことをきちんと心得ている人は、どこに行っても通用するものだ。話題を独りじめ(二人占め)している人たちに限って、俗物なのである。
●第3位[第十二段]
同じ心を持っているような人と、しんみりと話しをして、おもしろいことでも、つまらない世間話でも、隔てなく話しあうとしたら嬉しいことにちがいないのだが、そういう人があるはずでもないから、ちょっとでも相手のいうことに逆らわないようにと、向かい合っているとしたら、―――自分ひとりだけでいるような気持ちがするだろうか。
お互いにいおうとするくらいのことに対しては、なるほどもっとも、と聞いている甲斐はあるものの、少しは相手と違った意見のあるような人は、「わたしはそうは思わない」などと反駁し非難し、「そういう理論でいくと、そうした結論も出るのだ」などと話し合ったら、つれづれな気持ちも慰むだろうとは思うけれども、実は少しは、ひそかに懐いている不満といった方面についても、自分と同じような考えを持っていない相手では、お互いに通り一ぺんのつまらない話をしている間はいいとしても、ほんとうの意味での友達としては、遥かに隔たったところがありそうに感じられるのが残念である。
何かのアンチである人は、それについての仲間もほしがる、という捉え方でいいのだろうか。
いや、論争をしなければしないで虚しい、という意味か。
私は、他愛のないことから、ひどくマニアックな日本文学論争(例えば村上春樹作品におけるドーナツ化について)や、芸能、学校生活などをいっぺんに気兼ねなく語り合える友人がいるから、それをとても幸せに思えた一編であった。
●第4位[一一三段]
四十歳を超えてしまった人が、艶っぽい色好みの方面にたまたま夢中になっても、それを人に知られないようにしているなら、それもしかたがない。言葉にまで出して、男女の関係のことや、他人のそうした方面の噂まで、おもしろがって喋るのは、年がいもなく見ぐるしいことだ。
いったい聞きにくく見ぐるしいこととしては、まず老人が若い人に交わって、無理にもおもしろがらせようとして物をいったり、卑しい身分のくせに世間に評判の高い人を遠慮なく親しげに話したり、貧しい家のくせに酒宴を好んで、客人に御馳走しようと贅沢なもてなしぶりをしたりすることだ。
「若い人に交わって、無理にもおもしろがらせようとして」結果的に沈黙をつくっている中年サラリーマンをこの間電車の中でみつけた。私は北海道出身だが、北海道に比べて、関西にはこの、会社帰りに空回っている年配の方が多い気がする。いつの時代もジェネレーションギャップというものは存在し、年がいくとそれを埋めようと躍起になる男性はいるのだ、と笑ってしまった段であった。
●第5位[三六段]
長い間訪問しないでいたころ、どんなにか怨んでいるだろうと、自分の怠慢さが思い知られて、言い訳のしようもないような心持のする折に、女のほうから、「下僕がありますか、一人」などといってよこしたりすると、まったく意外な気がして嬉しいものだ。それほどまでの気立てを持った女なら、ほんとうにいい女なんだと、ある方が申しておられましたが、そうあってもいいことだ。
この中の「下僕」の意味がいまいち捉え難かった。当時の男女の関係は、男が女の元へ通い、朝が明ける前に帰っていく、そういう形で契られていたのはわかる。
『下僕をよこして(そして一緒に来ればよろしいのに)』と、遠まわしに会いたがっている女なのか?と推測したが、はたしてそうであった。なんとも奥ゆかしいものである。
この男がどういった理由で女の元へ通わなくなったかというと、多分他の女の元へ通っていたのであろう。そういう時代である。それが見え透いていても、女は健気にさりげなく「気にしていないから、いらっしゃい」と手紙を差し上げちゃうのである。健気というか、愛というか、器の大きさというか。こういうおおらかな気持ちで人と接したいなぁ、と深く思った。
後に15分ほどこの女の真意を考えてみたが、もしたしたら、ひどく怒っていて、男が感心してルンルンで女の元へ出向いたら、酷い目に遭った、などという話でもある意味面白かった、かもしれない。
<現代語訳> 出典『徒然草』今泉忠義=訳注 株式会社角川学芸出版
平成20年10月 改訂94版発行
<参考資料>超現代語訳 徒然草(
http://www.ks-cube.net/tsure/index.html)
(2010.9.27)